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上越人の気質、上杉謙信の参謀

冒頭の鉛色の空ではないが上越出身の人たちはいわゆるおとなしいか、地味な感じがする。一般に県民性としても我慢強い、ひたむきななどというイメージがある。それに対して他の都市などでは「おらが街の大将、なんとか公」といって、昔の武将を日常の範とする都市が結構ある。例えば金沢などは前田公のお家元という感じがよくでている都市であり、私は金沢の金細工などを旅行のたびにおみやげにしてしまうが、観光みやげにしても地方の文化にしても、実にうまく前田公を利用している。
また一般に「城」のある都市では城下町を十分にアピールし、「城」を中心に観光や産業の発展をはかっている、松本、大阪、そして上杉家ゆかりの会津、米沢しかりである。
史実に基づいたしっかりした背景をもった城を中心に、地域の住民がその城を愛し、またその城から多くの恩恵を受けているのである。

上越にも他の都市がうらやむような「城」が2つもある、はたしてそれがうまく地域の発展に生かされ、地域の人たちのよりどころになっているのであろうかというと、(特に観光面も含めて)、人々を寄せ付ける魅力になっているとはとても言い難い現状がある。春日山城には謙信公祭などを筆頭に多くの行事があるが、正直なところいまひとつ盛り上がりが伝わってこないのである。ただその時期だけ、参加した人たちだけが騒ぐが、その時期を過ぎればもう関係なしの感がある。日本有数の山城にもかかわらず、春日山城の復元もされていないのであるから、根本的なよりどころがなくインパクトに欠けるところはいかんともしがたい事実である。
単純に城があるから(例えば春日山城を)復元したから行事が大きくなると言うことではないが、ハード面の整備は非常に重要なことと考える。

ソフト面の整備は、初期整備の段階ではあまり重要ではなく、運用やイベントはすべてハードがどのような形で形成されているかにかかっている、ハードの特徴にあわせて多くの運用イメージがわき、イベントが成立してくるのである。

かろうじて上越地域で全国的に有名なものには、「高田の夜桜」がある。
万単位のお客が桜を見に来ることは毎年有名だが、例年のごとくアクセス道路は全く整備されて居らず、とてもスムーズに観桜会を堪能できるという実情ではない。
また松平公という名前は、はたしてその場に存在しているだろうか?
ただ桜がきれいだ、城がよく照明に映えていた、夜店が多かった、などということで、終わっているのである。まあ花見の宴に堅い話がないのもそれは当たり前だといえばそうであるが、(正直小生も花より団子派でありますが)花見の酔客に何か歴史を感じさせるもうワンポイントの努力が大いに必要である。例えば時代衣装をまとったエキストラを周辺に配置するだけでも大いに雰囲気があがるというものである。城や桜がそこにあるから観桜会をヤルのではなく、観桜会で高田城をアピールし、日本人でもまた外国の人でも、上越に毎年来てほしいのである。また夏は春日山城を見に来て直江津海岸で夕日を見物してほしいのである。あからさまに言うと上越に、円でもドルでも通貨は問わないからお金を落としてほしいのである。
たかが桜で何万人も集まる都市なのに、この2個の「城」をいまひとつ上手に利用できていない現実がある、実にもったいない話である。
京都の時代祭、高山祭り、など時代物の催しをあげればきりがないが、それに負けない背景は上越には十分にあると判断している。

謙信公は比較的若くしてこの世を去ったが、ある一説には女性であったとか、この地方の反乱に常に気を遣いナイーブな性格であったのではないか、などと川中島の合戦図にある勇猛なイメージとは少し離れたとらえ方もある。

出家しようとする際に、家臣が強く引き留めたが結局の所仏門に入り、毘の旗を掲げるようになる。このあたりの史実をつっこんで調べると面白いこと(女性説?)になるかも知れないが、今回の趣旨とは違う方向のため歴史家に任せることにする。ただ、どの時代も主人公一人では何にもできないのであり、その家臣や周囲のとりまきが優秀であったからこそ、謙信が戦国時代の1登場人物として名声をはせられたとも云える。

NHKの大河ドラマの徳川家康の家臣は、その優秀さをNHKが非常にうまく表現していたが、どっこい謙信公の家臣にも、謙信が早死にしなければ天下国家を語らせるに十分な資質を持ったものがいたことは、北陸遠征、何度かの上洛などからも十分に想像できるのである。
上杉家の為に尽くした直江氏(正確には謙信亡き後の景勝、そしてその参謀直江兼続等の面々であるが)などは米沢30万石に領地替えとなったあとも、上杉謙信以来の家風を守り、米沢の領地を繁栄させそれを明治の時代まで伝えたことは史実に見るところである。
上杉藩の配置換えにより、天下国家の情勢をはかり、主に忠臣で時に応じる能力の長けた謙信公以来の配下たちが上杉家のため皆米沢地方に引っ越してしまったことがくれぐれもくやまれる。
上越地方には、「おまんた、そんなんことして、なんになるんだね。」「どーせだめだろね」などという会話を時々耳にする、おそらく謙信配下の武将の末裔がもっと数多く上越地方に残っていれば、よりポジティブな思考と国政を総じて判断できるが風土が上越に生まれてきていたのでないかと考える。

上杉謙信という男は、たびたび上洛し時の将軍に謁見した。また関東管領の名に従い関東へも出兵した、謙信が京にいる間は足利義輝も彼を頼りにし、他のうるさ型の武士もおとなしくしていたとのこと。戦ぶりは「戦国最強」とも言われ、唐沢山城救援のため、単騎入城したという話も残っている。ただ当時の上越地域では、謀反はたびたびのことでありその始末に多くの心血を注いでいたこともたしかで、27歳にして高野山引退を言い出して家臣を大あわてさせ、その結果として、なんと逆に家臣がまとまり謀反も集結していったというが、人間的にも非常に面白い戦国の一大武将がこの上越にて産声を上げ活躍したのである、そして我々が、今まさにこの地「越後」に生きているのである。

山形の「上杉鷹山」はこの上越地方からでた上杉家由来の人間である。
家訓を守り、藩主として米澤藩の藩財政改革を行ったのは実に有名な話で、政治家には結構上杉鷹山好きの人間が多くいる、アメリカの故ジョン・F・ケネディ元大統領なども、ある時、日本人記者団の「あなたが最も尊敬する日本人は誰ですか」という質問に答えて、即座に、「それはウエスギヨウザンです」と答えたという。上杉家の末裔ということだが、ケネディが何故に上杉鷹山を知っていたのかは謎である。「菊と刀」という戦時中の日本分析の書物を知っている方も多いと思うが、アメリカ人は結構日本分析が好きな人種である。

他の土地の話ではなく、上越の飛行場の話であるから、話を戻すことにするが、「歴史は繰り返す」のごとく、もうそろそろ上越にも謙信の時代のような上越に活力を見いだすバイタリティーある指導者とそれを支援する集団などが現れてもいい頃ではないだろうか。

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